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2015年12月

2015年12月27日 (日)

「目の前の釘を拾うかどうかという話」

Facebookで友達がシェアされていたものを読んで、気持ちが楽になったので残します。

元は「入れ歯ブログirebablog  某入れ歯屋代表washizuのひとりごと」

の中のタイトルのとおり

「目の前の釘を拾うかどうかという話」

『例えば歩いていて目の前に釘が落ちていた場合、おっと釘だ、またげば大丈夫!
って行ってしまう人と、

後からここを通る人が万が一踏んづけてしまうと危ないから拾って捨てておこうと拾い上げる人。

普通に考えて後者のほうがいいし、みんなそうでありたいと思っても、現実は違うんですよね。

目の前の釘を拾うという、誰にでもできることをしない。

きっとそれはその釘があることでなにが起こるかの想像力の差なのでしょう。

前者は自分とその釘の関係性しか視野にない。だから自分がまたげれば別にそれ以上は関係ないわけで、決して、いじわるして拾わない、面倒だから拾わないというわけではないのでしょう。

自分と釘との関係性の中で、拾うことになんら意味がないからなにもしない。そういうことなんだと思います。

後者は自分と釘と、さらに後から来る人という第三者との関係性、しかも範囲だったり、時間軸だったりの幅の広い視野があるから出来る行動。

決して、優しいからとか気が効くからというのではなく、視野の幅がどれくらいなのかによってその行動が取れるのでしょう。

視野が狭いとそれに気づけない。それはわざとではなく、見えていないから仕方がない。そういう人には言って気づかせるしかないし、言っても視野が狭いとただ「面倒くさい」という感想しか持たないでしょう。』

ブログは視野の広さのことを言っていて、ここで著者は、広さが必要だよねと言っているんですが、そこはまあこのブログのとおりで、詳しくはブログ読んでください・・ですが、

私の気持ちが楽になったのは、ここの例えの釘を拾わない人に対して、

「何が起こるかわかるのに、拾わないかよ」とずっと思っていたことから解放されたことです。

普通、何が起こるかわかるでしょう!!・・って考えに凝り固まっていた。

それが、想像力の差ということから考えると、

そうよね、それさえ(私は“さえ”つき)分からない人がいるのよねって判れば、想像力が乏しいだけか・・・と諦められる。

このブログから学んだのは、自分が想像力がなくて、あるいは視野が狭くて、見えるものが見えなくていろんな機会を逃しているってことよりも、


そんな人を見つけた時にイライラして、そのことに神経を使って、自分の大事な時間を無駄にしちゃ駄目なんだってこと。

そんなこと気がついてなかったの?って言われそうだけれど、今更ながら気がついただけでもいいですよね。

それにしても落ちている釘ぐらいなら、まだ影響が少ないけれど、



権限持っている人が、目の前(例えば上司に気に入られたいとか、自分の優秀さを見てもらいたい)しか見えずに行動していたら、それで逃すものは自分の利益だけじゃすまない。
それなのに、そんなことがあちこちで起こっている。

そんなリーダーばかりの日本、どんなるんだ~って叫びたくなります。

2015年12月26日 (土)

「HARD THINGS(ハード・シングス)」ベン・ホロウィッツ著

ハーバード・ビジネス・レビュー読者が選ぶベスト経営書2015の第一位「HARD THINGS」を読んでいます。

ランキングの解説には、「二位を大きく引き離し、年代や業種を問わずに支持され、堂々の第一位に輝いた。」と書いてあります。

間違いなく“いい!!”

ベンチャー企業の話である。アメリカのとても優秀な人たちの話である。しかし、こんなの雲の上の人たちの話よね・・ではない。

普通に働いている自分にも響いてくるものがたくさんあります。
自分がしていることがやはり間違ってないんだと感じさせてくれます。

もやっとやっていたことに、そういう意味があったんだとわからせてくれます。

イントロダクションの最初の部分を引用させてもらいます。

 『マネジメントについての自己啓発書を読むたびに、私は「なるほど。しかし、本当に難しいのはそこじゃないんだ」と感じ続けてきた。
 本当に難しいのは、大きく大胆な目標を設定することではない。本当に難しいのは、大きな目標を達成しそこなったときに社員をレイオフ(解雇)することだ。本当に難しいのは、優秀な人々を採用することではない。本当に難しいのは、その優秀な人々が既得権にあぐらをかいて、不当な要求をし始めたときに対処することだ。本当に難しいのは、会社の組織をデザインすることではない。本当に難しいのは、そうして組織をデザインした会社で人々を意思疎通させることだ。本当に難しいのは、大きく夢見ることではない。その夢が悪夢に変わり、冷や汗を流しながら深夜に目覚めるときが本当につらいのだ。
 経営の自己啓発書は、そもそも対処法が存在しない問題に、対処法を教えようとするところに問題がある。非常に複雑で流動的な問題には、決まった対処法はない。ハイテク企業をつくるマニュアルなどない。人々を困難から脱出させるためのマニュアルもない。曲を次々にヒットさせるマニュアルがないのと同じことだ。プロフットボール・チームでクォーターバックとして成功するためのマニュアルはない。大統領選を戦うマニュアルはない。会社が失敗のどん底に落ち込んだときに、社員の士気を取り戻すためのマニュアルもない。困難なことの中でももっとも困難なことには、一般に適用できるマニュアルなんてないのだ。
 ただし、こういう困難な経験から得られる教訓もあるし、有益な助言もある。
 私はこの本で難しい問題への対処法やマニュアルを提供するつもりはない。その代わりに、私がどんな困難(HARD THINGS)に直面したかを語ろうと思う。』

本の帯に日本電産会長兼社長の永守重信氏の推薦文があります。『成功者は気概と執念で修羅場を乗り切っている。国や業種を超え、仕事と人生に重要なことを教える貴重な本』

まさにそんな本だと思います。

今年はあまり本を読めなかったけれど、それでも何冊も素晴らしい本に巡り合えました。

来年もしっかり本を読んで、すごい本に出会いたいと思います。

2015年12月20日 (日)

「留学有無で年収に差」2015.12.17(木)日本経済新聞朝刊 

少し前になりますが、日本経済新聞に出ていた明治大学の調査、面白いなと思いましたので、クリップします。

『海外の大学で学位を取った人は、留学経験がなく国内大学を卒業した人に比べ、就職後の年収が男性で平均70万円、女性で同109万円多いことが、明治大の横田雅弘・国際日本学部長(教育学)らのグループの調査で分かった。留学経験者の方が柔軟性や忍耐力が高まったと考えている人の割合が高いことも判明した。』

『横田学部長は「留学は語学力だけでなく、社会人に求められる能力の向上にも効果があることが分かった」と指摘している。』

全国の20代から50代を対象に留学経験者4489人と未経験者1298人を調査したそうです。

『留学中の異文化体験や学習経験が、意欲や考え方にも変化をもたらす様子もうかがえた。』

調査そのものを見たくなる記事です。

年収はともかくとして、留学をした方々は、もともと留学に肯定的な方が多いでしょうから、効果があった、変化があったという曖昧な評価にプラスの評価が出るのは当然かなとも思うのですが、同じ環境で同じような人が育ってしまう日本国内よりも海外に出ていろんな経験をした方がいいでしょうね。

この調査を見て、海外に行く若者が増えたらいいなと思います。

でもそれはそれとして、日本の中に居ても、生きてりゃ日々何らかの経験をするわけで、それをぼんやり過ごさないで、目の前で起こっていることにどういう意味があるのか、自分がどうかかわっているのか、あるいはかかわっていけばいいのか、しっかり考えることが大事なんじゃないかなと思います。

最近、若い人に限らず、起こっていることの表面だけをとらえて、いろいろ言う人が多くて、それってそんなふうでいいの?もっと考えなよって思うことばかり。

せっかくいい経験して自分が成長する機会なのに、ぼけ~としてちゃ駄目だよね。

留学はした方がいいけれど、できなくったって自分の周りには、自分を変えてくれるいろんなものが転がっているってことに気がつくことの方がもっと大事だと“私は”思います。

2015年12月17日 (木)

夫婦同姓規定合憲判決(2015年12月16日)

親の都合で決めたことで、姓が変わり子どもが学校で肩身の狭い想いをするのではないかと離婚の際に旧姓に戻らず、再婚の際も事実婚を選んでいる自分としては触れないわけにはいかない最高裁判決が昨日、16日に出 ました。

「夫婦や子供が同じ姓を名乗ることには合理性がある。どちらの姓を名乗るかは夫婦の協議に委ねられており、民法の規定に男女間の形式的な不平等は存在せず、法の下の平等を定めた憲法14条に違反しない。」

民法の夫婦同姓規定は合憲と判断されました。

テレビのニュースで法廷でずらりと並んだ裁判官が映し出されましたが、日頃参画にあまり興味のない私でさえ、最高裁法廷にも女性が参画する必要があると感じました。

夫婦の姓は、確かに夫婦が話し合ってどちらかに決めることができます。

しかし、いままで圧倒的多数が夫の姓を選んできたこと、妻の姓を選んだ場合の予想される周りの反応、姓を変えることの社会的影響を考えた場合に、多くの場合やはり女性が姓を変えることになります。

女性の対するいわゆる間接差別が存在していると思います。

私たちは個人を識別される際に氏名を使われますが、日本の場合、公的な場では名前より姓の方が使われていて、社会的には姓の方で知られている場合が多いと思います。

姓も名前も、同姓、同名が多く、姓名が揃って 始めて個人が認識される場合も多いです。

そして、パソコンが普及しているので、個人を探すとき、姓名を入力して探すんですが、姓が変わってしまうと以前の姓名しか知らない人はその人を探せなくなってしまいます。

データが変わっただけですが、本人からすると個人そのものが存在しなくなったような感覚を味わいます。

姓って個人にとって大きいですよね。

民法の規定を読んで、表面的に考えれば、今回の判決は妥当なんだろうと考えます。司法ではこれが限界なんでしょう。

ところで、通称使用に言及しているところや国会を持ち出しているところに、明治以来続いている規定に「自分」が真っ向から違憲判断をする勇気がなかったのではないかと逃げを感じてしまいました。
このことや少数意見をどのように考えるか。

例えば 「通称使用が広まることで不利益は緩和される」という文言があって、それなら金融機関の口座や公的な書類、手続きなど通称使用が認められていない分野でも通称使用を進めないといけないってことですか?

通称使用を認めるように個別の法律改正や企業の規定の改正をしないといけないってことですか? とか、

国会できちんと議論していかないといけないんですよね。司法から立法に議論の場が移っていくんですよね とか、

素人でもそんなことを考えるから、 これから専門家からいろいろと意見を出されて、判決は同姓を合憲としたけれど、現実はぐっと前に進むってことになればいいなと思っています。

社会は法で動いていて、法に問題があれば裁判所で判断をしてもらって・・と思うけれど、裁判だけですべてが終わるわけじゃない・・そう感じた判決でした。

2015年12月 6日 (日)

「本の小径「文学はなぜ必要か」 文科省の通知へ様々な反論」2015.12.6日経新聞(朝刊)

日経新聞の読書欄に掲載されていた記事「「文学はなぜ必要か」 文科省の通知へ様々な反論」、文学にはあまり興味がないので、普段なら見出しを見ただけで読み飛ばす記事なのですが、ちょっと気になって読んでみました。

著者は編集委員の宮川匡司氏です。

『書名を見た瞬間、「心の叫びが聞こえてくるようなタイトル」と思った。万葉集など古代文学の研究で知られる古橋信孝氏の『文学はなぜ必要か』(笠間書院)。日本文学の流れをたどる日本文学史といってしまえばそれまでだが、その叙述は、従来の文学史とはガラリと違う。  「2年半前から執筆を始めたが、これからの社会に文学部なんか不要だ、という最近の議論に対しては、『それは違う』と思った」と古橋氏は語る。言うまでもなく、国立大学に、教員養成系と人文社会科学系の学部・大学院の組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に取り組めとする今年6月の文部科学省の通知が念頭にある。古橋氏の著書は、文学研究を無用の長物と見る向きへの根本的な反論にもなっている。』

記事が紹介している『文学はなぜ必要か』という本では、古事記や日本書紀、平家物語などを出しながら、タイトルどおり、文学がなぜ必要かが述べられているようですが、

『本書によれば文学は人間の「自立的な精神」が生み出すものである。与えられた枠組みの中で成果を出すことばかりが求められる社会の中で、「文学は自分を考え、ものを考えるきっかけを与えてくれるものだ」と古橋氏は語る。  

文芸誌「文学界」12月号のインタビューでジャーナリストの立花隆氏は、「すでに教養部門が弱体化しているところに、さらに大学でカバーされる学問分野が近視眼的な実学分野ばかりになってしまったら、日本人の教養レベルはガタガタになってしまいます」と危惧する。問いや疑い、広い教養を見失った学問ほど悲しいものはない。』

多くの大学生が社会でどう役に立つかわからない教養を学ぶ気持ちがないなら、そもそも勉強をする気持ちがない(自分も大学生の時はそうだったですが)なら、仕事ですぐ役に立つ実学だけを学ぶ方がいいと、ちょっと前まで考えていたのですが、

いまは、

人文社会科学など、社会に出てからどう役に立つかはわかりにくいものを学ぶことは、考えるくせをつけるために絶対必要なんじゃないかと思っています。

実学を学んで即戦力になるということも大事だろうけれど、

目の前の仕事をこなすことだけを考えず、

その仕事に意味は何なのか、なぜこの仕事をしているのかなど、自分で考えるくせがついていれば、上から命ぜられるままに仕事をしていて、何をやっているかわからない、あるいは成果を上げるために数字ばかりを追っていて、気がついたらおかしな方向に進んでいた、なんてことが少なくなるんじゃないかなと思います。

手っ取り早く社会の歯車になるのではなく、そもそも社会に何が必要かを考えてそれを作っていく。

そっちの方が面白い。

だから・・

考えるくせをつける・・ことが大事なんじゃないかと思います。

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